「美しい国」の国民の─憲法─

              
全国の高校で、必修のはずの「世界史」を勝手に他の受験科目に変えてしまったという事件は、「靖国参拝」、「歴史教科書」問題にも匹敵するほど、中国や韓国から抗議を受けても不思議ではない事態をまねくだろう。彼らは「やはり日本人には責任という言葉の意味が全然解っていなかった!」 と、あらためて感じるだろうし、逆に日本側からすれば、この事件によって「なぜ、何度も謝罪しているしお金も使っているのに、許してくれないんだろう?」という疑問が、ほんとうなら解けなければならないはずだ。 中国、朝鮮人達が執拗に抗議してきた「歴史教科書」問題では、彼らは、歴史をどう認識するかという、リアルな条件闘争として戦ってきたはずなのに、それこそ「のれんに腕押し」、日本人は、むかつくことに、とうの昔から、よそ見をしていて真剣に考えてなどいなかったのだ。
前回の投稿と重なるが、20世紀を通して、世界の五指にも数えられるような、強大国だった日本が、その間、列強に混じって多くの人を殺しておきながら、まるで世界史とは無縁だったような顔ができるというか、本当にそう思えてしまう。それが日本人の、「特殊」な感性なのだ。

保守派の方々には、勘違いのないようにお断りしておきますが、井沢元彦が言うように、どうして韓国人には、「日本は良いこと『も』したということさえ理解できないんだろう」とか、小林よしのりのような「戦前の日本のインフラ整備によって韓国の現在があるのだ」というような発言は、先進(モダニズム)社会に生きる者の宿命として「加害者」の意識を自覚できる─「大人」─に対してなら意味があっても、─「美しい国」という言葉に矛盾を感じることのできない「子供」─に対しては、「百害あって一利無し」であることを認識してほしいと思います。(「贖罪」として─自己の内面に罪を背負う ─ことと、保守派のロジックとは、本来分けて考えなければならないことであり、必修科目であったはずの「世界史」の切捨ては、前者が欠落していることを、露呈させてしまったと思っていいでしょう)

「歴史」が、─「生成するものであって制作されるものではない」─と、つまり、あるがままに歴史は流れるのだと、日本人の感性がそう感じている間は、現行憲法 「天恵」 だと思って大切に守って行く方がいいと思う。保守派が批判するように、若い憲法学者が、短期間で作った理想論的な憲法は、逆に考えれば、後世には二度と作れない憲法であって、現実にこの60年の間、日本は一人の外国人も殺すことなく、国民の生活を豊かにできたことをもっと大切に考えるべきだろう。
 わずか祖父の時代の昔の「歴史」さえも、美しい─「想い出」─にしてしまう国民の戴く憲法は、簡単に「時代の気分」 によって変えるべきではなく、常に答えを先送りしたほうがいいと思う。本心を言えば、あらためて現憲法を承認し(それこそ世界遺産登録でもいいだろう)、世界に向けて「非戦」を誓った上で、「核武装」する。これが日本にとって一番いいことのような気がする。【M】