「美しい国」の国民の─憲法─その2


例えば、東条英機が、その実力、実態を超えて「神聖化」できてしまうというのは、─歴史は「生成」されるもの─と感じる文化の典型的な例だし、その前後も含めた第二次世界大戦全体の流れを考慮せずに、「硫黄島」作戦だけを美化できてしまうことも、同じ構造だ。
「あるがまま」に歴史は流れると感じるということは、「歴史」はその時々の「現在」に向けて流れてきたのであり、現在が豊かであると感じれば、当然それまでの歴史は全て「正しかった」 ことになる。その理由で、日本人が広島、長崎の原爆投下も、ある意味しかたのなかったことだと感じているのはそのためだろう。今を豊かに生きている日本人にとっては、日本の歴史の流れは─「美しい」─のだ。
全国の高校にひろがる世界史の履修漏れ現象は、日本人にとって「歴史」が─自己を形成した血肉─ではなく、「教養」の一部でしかないと感じていられる、ある意味幸せな民族にのみ許されることなのだろうが、問題は、過去、日本が辛酸をなめるような時代にあっては、歴史は、醜いものであったはずであるということを思い出すことができないということだ。事実、わずか70年前のことですら、我々は歴史を「美化」してしまっている。(中、韓に何をしたではなく、自身を傷つけたこと)
自らが自らの欠点を自覚して、憲法によって自己規制することは、「美しい」ことだと思う。前にも書いたが、そういう意味では、現行憲法は日本人にとっては「天恵」なのではないだろうか。