「美しい国」の国民の歴史 2 

■10年ほど前、NHKスペシャルで、11週に亘って、『映像の世紀』 という特集があった。 今日、たまたま有線TVで再放送を観たのだが、日米合作のそのドキュメンタリーは、ロマノフ王朝の没落、第一次世界大戦から、ベトナムカンボジア、ユーゴなどの戦後冷戦下での悲劇まで、正視に堪えないような残酷な映像をまじえつつ、20世紀という時代が、いかに多くの人の「屍」の上で築かれてきたかということを痛切に伝えてくれる。 おそらく、過去日本で作られた歴史ドキュメンタリーとしては、最高の作品だろう。 これを観れば、日本が世界史と無縁でありえたはずはなく、「世界史」は不要と考える日本人の感性が、いかにボケているかが解る。

20世紀の幕開きと同時に、日露戦争で世界史に参戦した日本は、当然その後の、第一次世界大戦、それに絡む植民地の列強との争奪、そして中国、太平洋戦争、アメリカを支援した朝鮮、ベトナムイラク戦争と、アジアの大国は、その強大な軍事力を持って、世界史の主役の一人を演じてきたのだ。そして日本も、世界史のなかで、多くの人々の命を奪ってきたのだ。それは確かに、保守派が言うように、他の国も同罪で、近代化とはそういうものだとも言えるかもしれない。 しかし日本が他の先進国(列強)と決定的に違うところは─その罪を背負う覚悟─が、まるごと欠落していることだ。「罪は認めるが、しかたがなかった。しかしその罪は背負う」ということと、「少しは罪はあったが、他の国も悪い」と思うことまでに止まるとは、精神的にそのまま大人と子供ほどの「差」がある。 
 アリバイ工作的に、世界史は必修としているが、本心としては不必要だと考えることが、これまで多くの人の命を奪ってきた、責任ある世界史の主役の一人として、いかに無責任であり、不真面目であるかということを深く考えるべきである。 まず始めなければならないことは、しっかりと「世界史」を見つめることであり、そして我々日本人は、─「美しい国」の住人ではもはやないのだ─ということを自覚することだ。そしてそれは「自虐的だ」などという、トンチンカンな問題ではなく、それが、モダニズムというものの普遍的な宿命であるということを知ることだ。【M】