時代の─「気分」その4 「グローバリズム」

 
■社会の─「グローバル化」─はもちろん今に始まったことではなく、大昔から段階的に行われてきた。 ただ、今語られている 「グローバル化」と、かつての 「グローバル化」の大きな違いは、いまの 「グローバル化」 が、どういうわけか、─最終段階─に入ったとみんなが思っていることだろう。 
 しかし、「歴史の終わり」(リベラルな民主主義の始まり) とか、「共生の時代」 とか言われても、 その裏側には、それこそコロンブスが地球の反対側から帰ってきてしまって、世界が一定の広さで完結したものだと解ってしまって以来ずっと、なにか─閉塞感のようなものに付きまとわれいる─という感覚があるのではないか。


しかしそのような「有限性」は、本来個人が実感できるようなものではなく、段階的に小さな共同体から、世界共同体という単位へ巨大化してしまったという感覚は、そのまま、「情報の巨大化」 によるところが大きい。 つまり、あらゆる場所から、あらゆる情報が、瞬時に伝えられるという状況は、 自然や生命科学の分野以外の、「未知なる他者」を失わせ、全てが 「説明可能」 な世界であるかのようなイメージを造ってしまったのだ。 つまり、「他者」の力によって、小単位の「共同幻想」を破壊しつつ進行し続けた グローバリズムが、「最終段階」に入ったのだ、というイメージをみんなが、共有したことによって、逆に、「巨大な共同幻想 を造ってしまったということだ。


 しかしここで重要なことは、「グローバルな社会」 をささえているのは、個々人の、─共通の「イメージ」─によるところが大きいということだ。 ある現実があって、それに拘束されつつ生きているのではなくて、─みんなが共有するイメージによって現実を想定して、自らをそれにあてはめて生活している─ということだ、特徴的なのは、社会心理の持つイメージと、個々人が持つイメージがほぼ同じだということだ。
 今我々が向かわなければならないと思っている「グローバル社会」とはそういうものだ。【M】