時代の─「気分」その3

このあいだ、ニュースを見ていたら、銀座に新たな景観条例ができたといっていた。銀座一丁目から八丁目まで、高さ56メートル以上のビルを建ててはいけないという内容なのだが、その運動をすすめてきた銀座の老舗の経営者らでつくる、「銀座街づくり会議」の会長のコメントが興味深い。─「経済優先の雰囲気の中で、銀座は文化の香り高い街並みの継承に努めてきたが、さらに努力を重ねたい」─という。 ビルの高さと、文化と、どのような関係があるのだろう。


 いつだったか、皇居周辺で、皇居をまるごと見下ろせる高さのビルを作ろうとした会社に、自粛の要請が寄せられ、結局断念したことがあったが、なぜか丸の内界隈のビルは、官庁街でもないのに、ほとんど同じ高さの同じようなビルが列んでいる。 そこからは「文化の香り」が伝わってくることはなく、逆に、かつて爆弾テロに見舞われたような、経済優先の冷たい感じしか伝わってこない。 主観だが、丸の内オフィスビル街のように同じ高さのビルが整然とならぶ風景からは、中央集権的な何か暗いイメージしか浮かんでこないのだ。 
 しかし、銀座の老舗といえどもそのようなごく限られた人達だけの考えで、利権が絡む東京の一等地に、ビル容積率をそして景観を制限するような条例が出来てしまうはずはなく、そこには、何か別の「共同幻想」が働いているのではないか。 「統制を布きたい」あるいは「統制を受けたい」 というような、自閉的な心理を、「文化の香り」と感じてしまう、ある種の自虐的ナショナリズム


 おおげさと思われるかもしれないが、しかし少し考えれば解るように、経済行為の一等地で容積率が制限されればどうなるか。 かつての昭和初期のロマンチックな銀座の街並みが再現されると思ったら大間違いで、自然とビルの形は四角くなり、壁はなるべく薄く、天井高は低くなる。 要するに新たな丸の内のオフィスビル郡になってしまうのだ。 そもそも本当に新たな条例を実効的なものにしようと思ったら、さらな条例によって、強制的なデザイン管理をしなければならないはずではないか。そして高さ制限は、その一部として考えるべきものだろう。高さ190メートルの複合高層ビルを計画していた松坂屋が、「困惑している」 というように、銀座に進出する資本家にそのような必然性が解らないわけがなく、そこにも、当然の「理屈」をも覆してしまう、風景を統制化したいというような右傾した─「気分」─が、覆っているような気がする。【M】