時代の─「気分」その1

先日、美濃部達吉の、「天皇機関説」論争について書かれた本を読んで、ちょっと驚いた。 今まで漠然と、「天皇は日本の社会システムの、一機関に過ぎない」 という左派的な、美濃部と、右派の国粋主義者とのあいだの論争だったんだろうと思っていたのだが、実はぜんぜん違っていて、帝大教授で貴族院議員であった美濃部自身も完全な「国粋主義者」だった。 
 「機関という言葉はあくまでも近代国家における、憲法学上の言葉であって、日本の中心でありそれを総攬するのは天皇である」 と、言っているにも関わらず、軍部やそれを取り巻く政治家、官僚、マスコミも総出で、─「機関」という言葉そのものが、「不敬」である─と言いがかりをつけて、美濃部を総攻撃したのだ。 しかも美濃部は、「天皇機関説」という説を発表したのでもなんでもなく、右翼によって、以前に書いた憲法学の論文のなかの「機関」とう単語を、ほじくりり出されて、謂れの無い攻撃を受けたのだ。
 昭和初期という時代はそういう時代だったというこのなのだろうが、そこには、こぞって「右」に傾こうとする─「気分」─が支配していたのだろうと思う。

 昨日、たまたま、『おかしいぞ!警察・検察・裁判所』 という、複数の著名なジャーナリストが主催するシンポジュームを観る機会があった。 そこでは、近年の国家権力による様々な「弾圧」 が報告されていたのだが、不思議に思ったのは、─「なぜ、今の時代に?」─ということだ。
 確かに変な世の中になったとは思うが、かつてのように日本が「左」傾しているわけでもないし、とりたてて反社会的な運動が盛んになっているわけでもない。 それなのに、反戦のビラを蒔いたというだけで逮捕されたり、「共謀罪」を反テロの枠を超えて強化しようとしたり、「憲法」「教育基本法」を右寄りに変えようとしたり、国旗、国歌の強制もそうだが、なぜ、今の日本で、「国家」が肥大してこなければならないのか。
 そこにも、日本の社会情勢や、国際問題とは無関係に、なぜか「右」に傾きたいという、時代の─「気分」─が支配しているように感じられる。【M】