宮台真司のブログから

CCGの【T】さんがご自身のブログで、宮台真司の興味深い文章を紹介されていたので、この場をお借りして、僕なりの感想を。


宮台真司のブログから─
■日本は戦後一貫して「戦後的なもの」を肯定する「左」がナショナリズムを否定し、その反動でナショナリズムが大事だという「右」が「戦後的なもの」を否定する。無意味な価値結合だ。「戦後的なもの」を肯定するナショナリズムこそが必要である。
■威勢よさげに「戦後的なもの」を否定してみせる「右」は「戦後的なもの」─豊かさであり自由であり─にタダノリする。賢しらにナショナリズムを否定してみせる「左」は、国家─法共同体であり行政官僚制であり─にタダノリする。同程度に愚昧である。


要するに「右翼」は、戦前は良かったなんていう割には、戦後の豊かさ自由さにただ乗りしているし、「左翼」は国家が悪いといいながら、その国家が作った法システムにただ乗りしている。 重要なことは、─「戦後的なもの」を肯定するナショナリズム」─だと言うのだ。
 一見イデオロギー闘争をしているかのごとき連中が、実は国家と「おんぶにだっこ」しているというのは、別にいまに始まったことではなく、天皇をいただく日本の近代史では恒常的なことなので置いておくとして、問題なのは、、─「戦後的なもの」を肯定するナショナリズムこそが重要だ─の方だ。


■「象徴天皇制」とは「戦後的なもの」を肯定するナショナリズムのためにこそある。


という宮台は、それを否定するなら、アメリカと決別する覚悟が必要だとまで言っている。しかし、そのことをこそ分析しなければならいはずの「戦後的なもの」を、当然のように「象徴天皇制」と双生であるかのように言い、 「それを否定するなら、アメリカとの決別を覚悟しろ」 などと脅しをかける。これが社会論者の言うことだろうか。
 関係性ということで言えば、「象徴天皇制」が、戦後的な繁栄に寄与したという事実があるだけで、それは「戦後的なもの」の一部でしかないし、実はそれは、日本の近代を通して言えることだ。だいたい戦前の非合法共産党でさえ、天皇制を戦略的に認めていたように、日本の近代史のなかから、「戦後的なもの」だけを抽出することはけっこう難しいのだ。にもかかわらず明治以降、実質的に象徴でしかなかった天皇が、憲法によって「象徴」という記号が付加されたからといって、それが、目新しいことのように「戦後的なもの」の象徴と言ってしまう。
 重要なことは、宮台のように天皇」の関与を歴史認識の前提としてしまうことではなく、「戦後的なもの」のなかから、天皇というスケープゴード(それは天皇の埋葬方によっても明らかだ)の関与を、社会心理学的に「分離」してみることであって、そうしなければ、いつまでたっても、日本の近代史を「相対化」することは絶対に不可能だと思う。【M】