ネオコン判事の「暴走」

今日、幼い女の子ひとりを殺した変質者に「死刑」が言い渡された。 複数ではなく、「一人」の殺害でも死刑判決が出せるのかというところに注目が集まっていたようだが、ここでは、「被害者側の立場に立った判決」 が出されたわけだ。 しかしその理由が、全く理由になっていない。 ─「何の罪も無い幼い子を、自分の欲望のみによって殺害したことは極刑に値する」─これでは、なぜこの男だけが、という疑問に答えていない。 
 それがどのような悪人であれ、地裁の、「ズレた正義感」に酔った若手判事のために、一人の人間が「死刑」にされたのではたまらない。 即時、弁護側が控訴を決めたのは当然だろう。 判事は、本来ならばこのように言われなければならないのだ。

 ─「殺人を快とする性的倒錯者は、更生の見込みが無い。一人の殺人であれば無期懲役を言い渡すところだが、それでは出所後、さらなる被害者を出す恐れがある。本来であれば終身刑が相当なところだが、あいにく日本には終身刑制度がない、よって、本人には気の毒だが、この際、死刑を持って罪を償ってもらうしかない」─。

以前にも書いたことだが、日本には終身刑がない。殺人者に対しては、「死刑」か「無期懲役」かという無理な判決を言い渡さなくてはならないのだ(なぜ日本に死刑制度がないのかということについては自分の考えるところを、6月20日の投稿「死刑か無期懲役か」に書いたので、読んでいただければありがたいが)。現代の殺人事件は、かつてのように怨恨や金欲しさという、判りやすい理由によるものだけではなく、この事件のように、趣味や快楽が動機になっているものが多い。そのような殺人は、怨恨や金の問題のように、解決されたり、諦めたりできるものいではないようで、特に犯人が若年の場合、出所後の再犯の可能性も考えなければならない。そのような場合、世論は単純に「死刑」を支持するつもりなのだろうか。そしてそれが、ある意味「優性保護」にあたる可能性があることを認識した上でのことなのだろうか。

 昨日の朝日新聞に、歴代で唯一死刑執行をさせなかった杉浦法相が、官僚から厳しい批判と説得を受けていたという記事が出ていたが、もうそろそろ、なぜ、日本のように豊かな文明国に、「死刑」が存続しているのか、と同時に、にもかかわらず何故、それ以前の刑としての、「終身刑」が無いのかということを、真剣に考えなければならないと思う。