日本人の精神的欠陥 「平成の大獄」編

 一昨日、 元オーム真理教教祖、松本智津夫の死刑が確定した。 「死刑」ということから考えると、この一連のオーム真理教事件の被告達に対する死刑判決の多さは、異常なのではないかと思う。
 いくつかの事件が重なったとはいえ、同じ組織がほぼ同時期に行った犯罪に対して、13人の死刑が求刑(大半が確定)されるというのは、前代未聞だ。例えば、昭和初期の「大逆事件」では、死刑が執行されたのは、11人に止まっているし、封建時代のあの、「安政の大獄」でさえ、たしか死刑は10人程度だった。おもしろいのは、「大逆事件」も、「安政の大獄」も、名称は違っていても、今で言う、「破防法」が適用されたわけだが、オーム真理教事件では、かつて無いほどの国家による死刑が求刑されるような大事件であったにも関わらず、破防法が適用されていないことだ。
 なぜ破防法が適用されなかったかということについては、先日、元公安調査庁の職員だった人の話を聞く機会があり、おもしろい話を聴いた。 当時オーム事件を調査していた公安調査庁というのは、かつての左翼運動を警戒するために作られた組織で、膨大な予算を持っているのだが、ソ連も崩壊し、冷戦が終結してしまうと、公安調査庁の存在理由そのものが問題視されてしまう。 しかしその180億近い予算を、手放したくない法務省が、新たな国家の危機を捏造するためにオームを利用したらしいというのだ。 じじつ当時の法務大臣宮沢喜一からの強い反対があった。 つまり、破防法を適用して完全に解散させてしまうのではなく、事件を長引かせる必要があったのだ。
  
 しかし、オーム真理教事件の具体的な内容はともかく、破防法が適用されなかったことも含めて、一連のオーム真理教事件をとりまく日本の「社会心理」には、もっと複雑なものがあるのではないかと思う。 図式的に言えば、「国家組織」維持のためには、常に「反国家組織」を捏造しなければならなかったという理由付けもできるが、今の日本にはそれほどのモダニティーはない。やはり、問題はもっと低次元のもので、日本の「社会心理」全体に働く、「ヒステリー」なのではないだろうか。すごく単純な話だが、信じるものを持たない日本人の、「信じる対象」を持つ者への─嫉妬─なんだろうと思う。
 無宗教な一般の日本人にとっては、奴らはあくまでも「外部」であり、─他者─として、つまり殺してもいい連中としてカテゴライズされなければならず、したがって、「破防法」を適用するような、反逆者という「主体性」を与えることは、絶対にできなかったのだ。

 自らの精神に都合の悪いことが持ち上がった場合、日本の近代史によく視られるように、彼らは「スケープゴード」となったのだ。だから、現在「アレフ」が、賠償金を払い続けていることも、じつは面白くないと思っている。このような事件で、賠償金を払うと言うこと自体、稀有なことなのに、まだ三分の一しか払ってないといって批判するのは、彼らが、徹底的に「苛められていない」ことを不満に思っているからなのではないか。【M】