「9.11」─その2

ニューヨークの世界貿易センタービル跡地再開発計画は、ユダヤ人建築家、ダニエル・リベスキンドのプランに決定している。 そのプランは、再び五〇〇メートルを超える世界一高い高層タワーを建てるというものだが、それに対し、日本人建築家、安藤忠雄は、緑の小高い丘にたたずみ、死者を悼むというプランを提出した。 

 5年の月日が流れた今でこそ、 あえてイスラムに喧嘩を売るようなリベスキンドのプランの野蛮性はさほど感じなくなってしまったが、当時は、安藤のプランがごく自然に感じられ、世界貿易センタービル跡地は、そのような場所になるだろうと、漠然と考えていた。 
 そのことは、ちなみに安藤のプランが、彼一人の発送によるものではなく、複数の建築家が関わったプランであったことからも、日本人の感覚としてはけして不自然なことではなかった。


 今思えば、確かに、ユダヤの利権が絡むマンハッタンの一等地に、安藤のプランはあまりにもピュアでありすぎたのかもしれないが、しかし対照的なふたつのプランの間に我々は、単に民族性、文化の差という解釈では片付けられない、本質的な─異質性─を視なければならないのではないかと思う。 
 敗戦国として、戦後我々が近代的モダニズムのスタンダードとしてきた「アメリカ」は、我々にとっては、分析の対象とはなり得なかったのかもしれない。しかし、戦後から始まる蜜月ともいえる関係のなかで、豊かな民主主義社会を造ってきた我々は、あまりにも長くアメリカの 「内面」 に感じる─異質性─から眼をそらし続けてきたのではないか。

 例えばアメリカの、原爆投下という非道の直後の、献身的な日本統治という「矛盾」を、我々は政治レベルを超えて考えたことがあっただろうか。 また、イラク戦争においても、「世界秩序」の名の下に、劣化ウラン弾を投下できるアメリカを支持した日本政府に、 経済的な利害を超えて、彼らの内面つまり、 彼らの─「信仰」─をも支持することになるのだという認識と、その覚悟があっただろうか。 
 以前の投降にも書いたことだが、 アメリカは、あえて 「災いの種」」 を蒔き、それに勝利することで自らの 「アイディンティティー」 を維持してきた。 アメリカの歴史は単にモダニズムの歴史ではない。当然、ピューリタンの末裔である彼らの内面には深く「宗教」が関わっているのだ。 しかし我々はそのことの本質を視ようとしてこなかった。【M】