Towerレコード破産

以前、あるオーディオマニアに聞いた話だが、 音源、つまりレコードやCDから、プレーヤー、アンプ、スピーカーに至るオーディオシステムの中で、一番進んでいるのは、なんと、最も素朴に造られる、レコード盤らしい。 最高級のプレーヤーやアンプを使っても、レコードに刻まれている音の、半分程度しか再生できていないというのだ。 CDなどのデジタル音源は、 アンプの値段によって、はっきりと音の良し悪し、というか、聞こえる音の範囲が決まってしまうので、 レコードやミュージックテープなどのアナログ音源のなかにある、 「こころを込めて聞けば、未知の音が聞こえてくるのではないか」、というような、「ロマン」 は無い。 

 アナログとデジタルのそのような差は、もちろん音楽に限ったことではく、 映像の分野にもある。 ここ10年ぐらいになると思うが、 多くのテレビドラマがデジタル画像になった。 最近はさすがに、画素数も増やしたとみえて、それほどの違和感はないが、 ちょっと前までの、例えば、人気ドラマ 『水戸黄門』 などは、酷いもので、 薄っぺらで奥行き感がなく、カサカサした質感が、観るに耐えなかった。 画面の奥行き感の無さは、そのまま物語り自体の奥行きの無さを感じさせるのだ。 
  
 先日、あの「Towerレコード」が破産した。 どの論説を読んでも、i・podなどの音楽ネット配信の隆盛に負けたと書いてある。 日本のCD業界も、ここ10年ぐらい売り上げが落ち続けているということだが、単純に考えれば、音楽を聴く人の聞き方が大きく変化したのだろう。聴きたい時に、聴きたい曲だけを安価に入手して、手軽にイヤホーンやヘッドホンで聴く。 
 しかし、みんな本当にそれで満足しているのだろうか。音楽というのは、あくまでも音「楽」であって、それはそれぞれの楽器の奏でる音の、音質であり、ディテールの美しさだ。 その部分に拘らず音楽を聴くというのは、実は音楽を聴いているのではなくて、─「文学」─を聴いているのだ。 浪花節的な物語であったり、恋愛ドラマのようだったり、純粋に音楽を楽しむのではなくて、その音楽からイメージされる風景を、観念的に楽しんでいるに過ぎないのではないか。 つまり、そこには音楽そのものが、「不在」なのだ。そのことは、音楽に限らず、美術でも映画でも小説でもいえる。優れた作品は、その形式(ジャンル)の中でこそ美しさを放つ。 音楽であれば、優れた作品は、純粋に音楽的なのであって、他の物語(イリュージョン)を必要としない。 難しく言えば、芸術のモダニズム論ということになるのだが、例えばある音楽を聴いて、昔別れた彼女がイメージされるとしたなら、主はあくまでも彼女の思い出であって、音楽は、その味付けに過ぎない。

 もちろんそれがだめと言うのではなく、大きなレコード会社を倒産させたり、音楽業界そのものの構造を変えてしまうほどの勢力を、ネット配信音楽が持つようになることが、ちょと変だと思うし、何か寂しさも感じるのだ。何か音楽が、それを聴く人の人生にまで作用するものではなくなり、どんどん小さなものになってしまったような気がする。【M】