コメントありがとうございます

「栗林中将の功罪」に対し、いくつかのコメントをいただいたのですが、このブログは、実は自分の運営するブログではなく、管理人から自由に書き込ませてもらっているという性格のものなので、私物化を避けるためにまともな議論はできませんが、少しだけ。


「現代の価値観で過去を裁く、アホの典型」 ということですが、現代と、過去の間に大きな溝ができてしまったのは、日本人自身が、終戦直後から始めなければならなかった、歴史の相対化を怠ってきたからです。 「アホ」というあなたの批判も、過去を美化したいご自身のイメージからのみ発せられているに過ぎません。 アメリカに支えられた高度成長の快楽に耽った我々は、あの戦争の相対化から逃げ、敗戦という現実を忘れようとしたのです。結果的に、右派、左派(私は左翼ではありませんが)の両者の論拠は、共に史実とは無関係な、─「イメージ」─だけに頼るものになってしまった。
 これはどうしても避けられないことですが、私も、あなたも、過去を語る時、どうしてもリスクを背負った─「ジャンプ」─を強いられるのです。 つまり、様々な状況証拠を集めた上で、思い切った「主観」を、(疑いつつも)主張するしかない。 しかし私に言わせれば、保守派の集める状況証拠は、あまりにも、自分達に都合のいいものが多すぎると思います。 例えば大岡昇平の「お」の字も、島尾敏雄の「し」の字も出てこない。

 確かに「無常観」という概念を、栗林中将の心理にあてはめることは、無理があるかもしれない。 しかし私が問題としたいのは、栗林中将が、あのような状況に至らなければならなかった、あの時の日本全体の社会心理です。 あの戦争の始められ方、戦い方は、明らかに 「近代的」 ではありません。 軍部には珍しいモダニストだったはずの栗林中将も、先のない戦いに、21000名の若い命といっしょに、死んでゆこうとする。 「本土を護るための捨石となった偉い人なのだ」 という理由だけでかたずけていいはずがない。

 私は「無常観」という欠陥を、栗林中将にあてはめる、それなりの根拠を、【M】という名で過去のブログにも、いくつかの「日本人の精神的欠陥」というタイトルの文章等で書いていますし、他の所でも書いています(栗林中将については書いていませんが)。よろしかったら覗いてみてください。