終戦記念日に向けて2ー『夢』

 小説家、なかにし礼は、満州に生まれ、終戦、死の淵を彷徨うようにして日本に帰ってくる。 大陸の悲惨な状況を知るなかにしは、本土が更に荒廃していることをイメージしていたが、そこでみたものは、明るい 『りんごの唄』 が流れるなかを、元気に立ち回る日本人の姿だった。 
 故郷に帰ることもできず、いまだ死の大陸を逃げ惑う夥しい数の同胞がいるというのに、その故郷では、戦争そのもを忘れてしまったかのように活き活きと働いている。満州の地で生まれ育ち、遠く日本を憧れを持って生きてきたなかにしにとってそれは強い憤りとなり、手のひらを返すような『りんごの唄』の流行は、なかにしに、今後一切日本の歌は聴かないと決心させることになる。 
 
満州、シベリアでは戦争は継続され、国が奨励した満州移民たちの惨状や、ソ連による不当な、捕虜の強制労働が行われていることを知りつつも、彼らは置き去りにされる。 敗戦の混乱にかこつけ、日本人は、そのような人たちを見捨てたのだ。 事実、日本政府は、終戦の混乱期、大陸からの引揚者のための、輸送船を一度も送っていない。民間による輸送が細々と行われたのみだ。
シベリアからの引揚船が最初に日本の港に着くのは、終戦から5年を経なければならなかったし、中国抑留者が日本の地を踏むことができたのは、さらに6年を経た、昭和31年になってからだ。しかし、そのように、捕虜という名称が与えられた兵士はまだいい。3千人とも五千人とも云われる、「中国残留孤児」たちは、昭和34年、そのような事実は無かったとされ、全ての戸籍が抹消されてしまうのだ。

外地を経験した、なかにし礼にはそのような非道が現実のものとして認識できた。しかし、高度成長に疑いをもたず、戦争被害者の存在さえも認識しようとしなかった、日本人達の心理の中の─「うしろめたさ」─は、まったく違う形で顕れる。例えば、昭和29年に発売され、当時としては信じられないような100万枚のセールスを記録した、『岸壁の母』 という歌謡曲がある。シベリア抑留者の息子を待ち続ける母親の姿は、多くの日本人の涙を誘うものであったが、しかしそれは、戦没者や、その記憶を呼び起こす、戦争被害者を見捨てたことに対して、涙を持って「自らを癒す」ものでしかなく、しかもその涙は、自省を促すものでもなかった。事実、現在に至っても、残留孤児問題に対しても、放置された100万とも云われる遺骨の収集にも、全く消極的であると言わざるを得ない。


黒澤明の『夢』という作品に、象徴的な場面がある。浮浪者のような姿で、一人復員してきた元将校が、トンネルを抜け、故郷にたどり着こうとするその時、背後のトンネルから、戦死したはずの部下達が追いかけてくる。「お前達は死んだのだ!」と彼らを押し戻すのだが、そこへ現れる野犬に激しく吼えかかられ、怯えて後ずさりするところでその夢は終わる。
 生き残った者にとって、吠え掛かる「野犬」は、「うしろめたさ」を持つ者の心のなかの、僅かな「良心」なのかもしれない。そのような葛藤は、本当は、「靖国」を巡って都合のよいロジックをならべる、右派左派の心理の中にも必ず在るものではないかと思うのだ。都合のよい共同幻想に浸かったまま、戦後社会の自己矛盾を隠蔽するのではなく、ひとつひとつの矛盾を相対化してゆく作業を、そろそろ始めなければならないのではないかと思う。【M】