日本人の精神的欠陥─底抜け「靖国問題」─

大槻会長  「私は専門化じゃないからよく分からんが、A級戦犯の合祀を取り下げることはできないだろうか」(靖国神社奉賛会会長)
松平宮司  「それは絶対できません。神社には『座』というものがある。神様の座る座布団のことです。靖国神社は、他の神社と異なりそれが一つしかない。二百五十万柱の霊が一つの同じ座布団に座っている。それを引き離すことはできません」(高橋哲哉靖国問題」より)


 靖国神社では、なんと英霊達がみんな一緒に座布団に座っているらしい。上は元帥A級戦犯から下は二等兵まで。しかし、「死ねば仏」というが、ほんとにそうなんだろうか。そうであればいいのだが、そうでなければ大変なことになってしまう。なんせ、百数十万人が飢え死にさせられたわけだから、同じ座布団に座っていても、飢え死にさせちゃった側の人にとっては、座布団というよりは「針のむしろ」でしょう。特にA級戦犯でもとりわけ責任の重い東条英機なんかは、「なんでいまさら合祀なんかするの!」と、悲鳴を上げているんじゃないでしょうか。
 
 以前にも書き込みをしたことだが、戦犯(A級戦犯に限らず)たちは、日本人の手によって裁かれてはいない。東京裁判では、平和を脅かした罪と、他国民に対しての虐待、殺人等の罪が主に裁かれたわけだから、自国の兵隊に対しての無策、虐待、殺人の罪は本来、日本人が裁かなければならない問題だ。別に裁判でなくても、ことの重大さから視ても、リンチや暗殺だって有り得たことだ。しかし、日本人はそのことをすべて怠ってきた。勝てば官軍であったはずの「東京裁判」を、ことさらに倫理欠如の問題として重大視するのは、そのことを、つまり自らの「非倫理」を隠蔽するためのパフォーマンスでしかない。もちろん隠蔽しようとする心理の中には、ほったらかしのまま遺骨の収集もしていないことや、中国に置き去りにした残留孤児に対する罪も含まれている。
 そのような、日本人の精神のだらしなさは、じつはA級戦犯合祀問題に端的に顕れているのだ。殺しておいて「英霊だ」なんていう欺瞞についてはよく言われることだが、一番根深い問題は、自分の夫や父や息子が、飢え死にさせられてたにも係わらず、その遺族が、「怨念を抱いて死んでいった息子たちも、戦犯たちを許している」と、かってに思い込んでいるということだ。 また、変なことを言うなと思われるかもしれないが、これはどういうことかというと、 自ら、戦後処理を怠ったことの理由付けを、「死んだ者たちも、もう許しあっているのだから」、というかってな決め付けをすることで、自らをも許してしまっているということだ。

 あの戦争の、始められ方、戦い方、負け方、その直後の極端なアメリカ化と、問題の風化の速さ。 われわれは、あの戦争に対して、何一つ相対化できていないことを、もっと深刻に考えるべきだ。 かつてプレモダン社会を容易に捨てることができた民族は、さらにその後、戦後の豊かさに負けて、しかもよりによって、恨めしいアメリカの豊かさによって、あの戦争の「恨み」も捨ててしまったのだ。─「あの戦争の犠牲者たちにどのような説明をすればいいのか」─このことが、日本人の心理のなかで、「トラウマになっていない」と考えるほうが難しいとおもうのだが。【M】