日本人の精神的欠陥─「仮の宿」─

川崎の生田という所に、生田緑地という大きな森がある。岡本太郎美術館があることでも知られるが、そこには昔の日本の民家をたくさん移設した「日本民家園」という、庭園がある。 「民家園」的な施設はおそらく各地にあるのだろうが、ここは、広大なスペースに、数十件の民家が移設されており、すべて見て歩くのは、なかなか大変なのだ。

 ふだん見慣れない物を見るのは楽しい事なのだが、何軒か見て歩くうちに、何か重苦しい気分になってくる。 日本の各地域ごとにゾーンニングされていて、それぞれの特色を出そうとしていても、ほとんど同じにしかみえないという「つまらなさ」もあるのだが、もっと大きな理由は、日本の民家には、「装飾性」というものが全くないことだ。 ただ「無い」というのではない。 居住性というものの全てを合理性に向けて、くつろぐとか、楽しむとかいった要素が全く拒絶されているのだ。
 
褐色の土間、腐食を防ぐために黒々と燻すされた太い柱と床板、細く急勾配のほとんど梯子レベルの階段に身を屈めないと通り抜けられないような引き戸。当然プライベートな空間などなく、日常的にそこで行われていたであろう男女差別と「いじめ」をイメージさせる、全く「色」と「多様性」に欠けた空間。 
 いたたまれなくなるのは、そのような「民家」が、日本の地域を選ばず、すべてに共通しているところだ。 われわれの祖先は、このような人間性の欠如した重苦しい空間の中で何を考え暮らしていたのだろうか。 ふと、─「仮の宿」─という言葉が浮かぶ。 この世が浮世なのだと思えば 「現世に楽しみを求めてなんになる」という理屈も成り立つのかもしれない。
 
 応仁の乱のころ、足利義政が若くして余生を送るために作ったといわれる厭世感漂う銀閣寺の一角に、国宝東求堂という別邸がある。義政が普段暮らしていた所だが、入ってみると、「どうしてこれが国宝?」といいたくなるようなお粗末な建物なのだが、なぜそう思うかというと、それは、ついこの間まで日本人が住んでいた、日本家屋そっくりなのだ。畳の間に小さな床の間、狭い部屋に、低い天井、少しせり出した窓の外には小さな庭が見える。よくいわれることだが、「装飾性」のかけらも無い国宝東求堂は、近現代の日本家屋の原型を成しているのだ。 何のことはない、われわれも、居住性というものの全てを合理性に向けてしまっているではないか。くつろぐとか、楽しむとかいった要素はせいぜい大型テレビを置く場所があらかじめ設定されていることぐらいで、昔の民家とどこがちがうのだろう。家庭内暴力や虐待の現場になっていることだって、同じではないか。 実際、僕の住む建売住宅にも、「色」も「多様性」もなければ、絵一枚かける壁もない。【M】

アフリカの民家です