生産行為とリスク

 前回の書き込みで、北陸方面を旅行したことを書いたが、仕事も一部兼ねていた。以前、富山の小都市の市立博物館に納めた、子供向けの体験型地層実験装置(僕の肩書きはデザイナーだがいろんなことをやらされる)に不具合があったので、修理してまた取り付けに行ったのだ。当初、館側に不具合の様子を聞いても、判らないということだったのだが、その不具合とは、単なる「ネジの緩み」であった。そのために元請けの会社の担当者もわざわざ現地まで謝りに行ったらしい。
 この実験装置は、地質の特徴を模型によって体験的に観察しようとするものだが、われわれは、地質学者の資料をもとに、機構の基本構造から、使う素材、デザイン、設計、製作まですべてオリジナルに制作したもので、世界でただ一つのものだ。したがって、実際に使った場合、どこにどのような負荷が掛かるかと言うことをあらかじめ想定することは、本当に難しいし、もともと博物館が営業利益を見込んで作るものではないから、時間も予算も限られている。しかし、博物館側からすれば、お金を出して買ったのだから、完璧であるのが当然だという。もちろんそれが正論であることは百も承知だが、そうであるのなら、少なくとも、機能面、強度面の確認をするための予備機を作ってから本制作に入るぐらいの、時間的余裕と予算を準備するべきであるし、それが無理なら、機構的なことぐらいは理解して、簡単なメンテナンスなら自らもできるよう努力するべきではないか。

 確かに、バブル崩壊後公共事業の仕事を取るために、低予算で高価なプランをプレゼンしなくてはならなくなったという事情はあるが、そのために施主が傲慢になったことや、末端制作者にしわ寄せが来るようになったことは、問題だと思う。しかしこれは、博物館とデザイン会社という特殊な関係に留まるものではない。高価な物を、安価に、しかもPL法に守られて購入できるユーザーと、メーカーとの関係にもあてはまる。三菱や松下のような大資本ならまだいいが、中堅、ベンチャーなどのこれから何かを「創」ろうという人達にとっては、いまの生産、消費社会の構造は、作ること自体への「リスク」が大きすぎるのだ。ましてや、自らのステイタスとして消費を考えることのできない日本社会では、製造者の「心」を汲み取るような精神的な幅は無い。結局、日本は責任をメーカーにだけ押しつける、「何かを創ることが難しい」社会になってしまったのだ。
 
 それが、米であってもテレビであってもかまわないが、何かを「作る」ことで生きている社会と、誰かが作った物を転売したり、情報を売ったりして生きている社会とでは、その質が全く違うと思う。前者では「作る」ことそれだけでリスクを伴うが、営利行為が単純で、はっきりした正統性を感じる事ができるが、後者ではそれは難しい(株長者やIT長者が胡散臭い目で視られているように)。要するに、精神的に安定した社会ではなくなるということだ。

日本で第一次第二次産業の従事者と、三次産業以降の従事者の人個比率が逆転して十数年、その頃?から異常な事件が目立つようになったことと、このことが無関係であるとはいえないと思う。今は、生産拠点を海外に移すことが常識化しているが、情報産業やサービス産業だけを生業にしてアイディンティーを維持できるほど、日本人の精神はタフではない。例えば「農・工は、商の上」というのは日本人的心理からすれば理に適ってたのであって、昔から日本では、「商」は蔑まれた職業なのだ。ー【M】
 掲載した写真は、郊外に住む104才になる農家の老婆の手から、型取りさせてもらったレプリカです。