モダニズムの理念─2

─「疾走するスポーツカーは『サモトラケのニケ』よりも美しい」─F.Tマリネッティ
20世紀初頭、美術や文学の世界に「未来派」と呼ばれるムーヴメントが興る。ギリシャ彫刻の名品よりも、人知を極めたスポーツカーの方が美しいというこの言葉は、合理主義(モダニズム)を徹底しようとする、「未来派」の思想をみごとに表現している。 一切の無駄を省き、数学的に計算されつくして立てられる様々な建造物や、工業製品は、かつての形而上(観念)的世界観を一切受け付けない強さと、明確な方向性を兼備えていた。
 しかし、現在語られる合理主義(モダニズム)は、かつての競争原理や進歩史観ではなく、「停滞と共存」を受け入れることを前提とした、個性と変化の乏しいものへと変化してきた。 つまり、観念(ロマンティシズム)をすべてそぎ落とすことによって顕れてくる合理主義様式の美しさは、その時代背景によって、全く異なった様相を呈するのだ。

昨日、一昨日とある展覧会を観るために富山、金沢を旅行したのだが、ちょうど富山での展覧会の建物と、金沢の美術館が、その、合理主義の両極にあたるものだった。
富山の「発電所美術館」は、昭和初期に作られた発電所施設をそのままギャラリーとして活用している。ここには見えていないが、水を落とすための、巨大な鉄パイプの先端には、前時代的なタービンが取り付けられており、人の手によって溶接され、また鋳型で抜かれた不思議な曲面を持った「鉄の塊」は、そこに出くわす者に圧倒的な力強さを感じさせる。 写真の大きな空洞は、3つのタービンの内の二つを外した痕で、かつてはここに大量の水が流されていた。(ちなみにアーティストは遠藤利克。50本のノズルから断続的に水を落下させるという作品)
 透明ガラスの曲面と、白い平面によって構成されたたてものは、最近話題になっていた金沢の現代美術館。内部もすべて白い平面と、透明ガラスで構成されており、「匂い、色、個性」を消去した、今の時代のモダニズム建築の先端的作品である。─【M】