「廃墟」

おそらく、洋の東西の差によって、「廃墟」という概念はかなり違っているのではないかと思う。先日、現代美術の作家で、ロンドンに留学していた友人と会ったのだが、彼によれば、ヨーロッパの作家たちは、「廃墟」を背負っているという。 例えばヨーロッパのギャラリーに行くと印象的なのが、古い石や煉瓦造りの建物が多いということだ。もちろんモダンな無機質の空間もあるのだが、ほとんど手を加えないまま、石や煉瓦でおおわれたギャラリーを多く見かけるのだ。 もちろん空間だけの問題ではないのだが、ヨーロッパのアーティスト達は、自らを拘束する「歴史」に縛られている。その歴史とは、彼らの先祖達が長年積み上げてきた「形而上」的世界感であり、その体に染み込んだ観念を、如何に相対化(廃墟化)するのかというところから、彼らはスタートしなければならないのだ。それに対して、日本のアーティスト達は、全ての概念を、ゼロからスタートさせることができる、あるいは、そうでなければならないと思っている。ヨーロッパの作家たちは、そのことがすごく羨ましく感じられるらしいのだが、つまり、ヨーロッパのアーティストは、まず脱構築することから始めなければならないのに対し、日本のアーティストは、良くも悪くも、根拠の無いところから、ゼロから構築を始められるということだ。 前出のギャラリーの例で言えば、日本の現代美術のギャラリーの空間は、全てと言っていいほど、無機質な「白」(タブラ・ラザー)である。
 
 アーティストに限らず、ヨーロッパにとっての「廃墟」とは、自己を規定するものであるのと同時に、それは忌まわしいものでもある。それに対し、われわれにとっての廃墟とは、単に「朽ちた物」「過去の物」というイメージがあるのではないか。もちろん歴史性を内包するものもあるのだが、例えば、最近たてつづけに出版された「廃墟」の写真集のモチーフの多くが、戦後の高度成長期に作られた郊外型の遊園地だったり、安普請の建造物である。 
 日本では、と言っていいのかどうか解らないが、われわれは、自己規定を強いるような長い「歴史」のスパンを持ち得ないのではないか。郊外に、アッと言う間に作られる合理的で安普請の建造物は、短期に廃墟化することを想定したものであり、次の物にすぐ取って代わられるものなのではないか。 積み上げる文化ではなく、事ある度に「リセット」される文化に生きるわれわれには、「廃墟」とは、自己の内面にかかわるものではなく、単なる「ノスタルジー」(想い出)なのだと思う。-[M]