無期懲役か死刑か

 日本の司法で一番不思議なのは、終身刑がないところだ。無期懲役と死刑の落差が大きすぎることは誰でも感じることだが、長年それを埋めようという議論は全くないようだ。提言はあっても議論の俎上には乗らないのだ。二十歳そこそこで殺人を犯しても、四十になるころには無罪放免というのはあまりにも刑としては軽すぎるし、それより少し罪が重ければ、いきなり「死刑!」というのは逆に残酷だろう。司法はその差をどのように説明するのだろうか。
 以前何かで読んだのだが、ある判事の面白い発言があった。欧米では終身刑の場合、保釈までの期間が4〜50年ぐらいだそうだが、「それはあまりにも残酷だ」というのだ。本人がどういうつもりで言ったのか知らないが、この判事は、刑務所に長く入れられるよりは、死刑になったほうが幸せだということを言っているのだ!。 この思想はけっこう凄い。この考えが日本人の一般的な考え方だとすれば「日本には何故終身刑が無いのか?」という疑問が一気に解けてしまうのだが、しかしこれは本当に前近代的発想で、かなりヤバいことなのではないか?。 浮き世思想というか、極楽浄土思想というか、「あの世でもう一度やり直しなさい」と言っているのに等しい。
 あまり意識されることがないが、日本では、「生きる権利」、「人権」と言ってもいいが、そのような基本的な概念が、極端に希薄である。重要というか、特殊なのは、それが単に希薄なのであって、強権による人権侵害ではないということだ。いい例が、ハンセン病訴訟である。なぜ日本だけが、隔離法の廃止が他の先進国に比べて40年以上も遅れてしまったのか? 繰り返し患者達は国に対して廃止を求めてきたのだが、そのつど行政からは拒否された。この時も、厚生省の役人が面白いことを言っている。「彼らは、隔離法によって保護してあげた方が幸せなのだ」、と。 この驚くべき発言は、しっかりとテレビで流れたので、紛れもない事実である。というか、彼なりの真心なのだ。これは「終身刑はかわいそうだ」という判事の思想にもつながるではないか。

 日本人は、近代社会で言うところの、「生きる」ことに対して、不真面目である。自分がそうであるから、人権侵害を受けている人たちに対しても、彼らが「生きたい」と切実に思っていることが理解できない。何の悪気も無いままに、彼らの「人権」を侵害しているのだ。残留孤児問題、HIV訴訟、いずれ拡大するであろうアスベスト訴訟などなど。
 そして、このわれわれの「生」に対しての不真面目さはこれまでにもこの国の国民に甚大な被害をもたらしたことをわすれてはならない。第二次世界大戦の戦死者の七割が餓死、病死なんだぞ! 兵士たちの生命をなんだと思っていたのだろう。どうして遺族は国に訴訟を起こさないんだろう。どうして遺族は戦犯を許してしまうのだろう。

 われわれは、日本人の精神の一部に、[致命的な欠陥]があると思ったほうがいいと思う。そのことは常に念頭に置いておかなければならない。様々な場面において、人権侵害の問題に直面した時には、自分たちの精神の中にはそれを解決できるような資質はないことを思い出して、恥を忍んででも、西洋モダニズムの知恵を借りることだ。最初の例で言えば「必要ない」と思っても、当然無くてはならない終身刑制度を導入しなければならないのだ。未成年の殺人事件ということを考えれば、そのこと自体を議論しても収集はつかない。無期懲役か死刑かという判断基準では解決できないことは本当はみんなわかっているはずなのだ。ー[M]