驚くべきプレモダン

天皇家の陵墓「多摩御稜」へ行くと背筋が凍る思いがする。特に近頃の皇位継承騒動を通して、愛子ちゃんや母親の雅子さんのことに想いを馳せると、その感を強くするばかりだ。自分ではモダニストだと思っているが、天皇皇后の埋葬の仕方は無気味というか異常であると言うほかはない。遺体は火葬されることはなく、棺はけして朽ちることのない銅板で作られ、蓋は隙間なく溶接される。そしてその棺は地中深くに埋められ、小山ほどもある盛り土がされたあとその上に石を敷き詰めてしっかりと固められてしまうのだ。実はこれは典型的な古代の王の埋葬の仕方である。王は御世の時代の全ての「悪」を背負わされ地中深くに埋められるのだ。雅子さんも、場合によっては愛子ちゃんも地中深くに閉じ込められ、天国に逝くことは許されない。
 この驚くべきプレモダンは現代に至っても、様々な問題の深層を成している。例えば靖国問題A級戦犯の「許され」方は、他民族には理解されないであろうし、代替わりの度に浄化されてしまう民族には、歴史という概念は育たず、「責任」という実体も空虚なものにならざるをえないだろう。また、正月の度に自分が清らかになったような気がするという悪癖は、つまりは常に子供でありつづけるということだ。そして反面そのような民族は、常に「許される」と思っている。いつまでも許そうとしない他民族に戸惑い、若い偽民族主義者は怒りを現すのだ。
 A級戦犯は本来、日本人の手によって裁かれなければならないのだ。A級戦犯合祀の問題とは、対外的な問題ではなく、自分達の父親やお爺ちゃんを病気や飢え死にで死に追いやった連中を、自分達子孫が本当に「許してしまっていいの?」という問題なのだ。昭和天皇の死と共にあの「悪」は浄化されてしまったのか。近世までの時代であれば、仇討ち不履行は「恥」とされたはずなのだが。
 まるで古墳を思わせる陵墓は、驚くべきことに、大正天皇の死から復活したものだ。明治政府は単純に王権の利用を考え、古代の習慣を復活させただけなのだろうが、平成の世になっても古代の残酷な埋葬を承認しつつ、「愛子様天皇になってもいいんじゃないの?」という言葉が自然に世論を形成している姿を観るにつけ、浅田彰が昔言った、「土人」という言葉を思い出す。 【M】