嫌「嫌韓流」

ハイカルチャーでもサブカルチャーでも同じだが、優れた作品には、共通点がある。それは、それぞれのメディアでしか表現し得ないものを必ず含んでいるでいるということだ。それは、美術でも映画でも文学でも、それぞれのメディアの「形式」を通してでなければ伝わらない何かが表現されているかどうかということで、優れた作品には、そこに描かれている物の単なる表面ではなく、それぞれの主題を凌駕する「奥行き」が表現されている。
 当然それは漫画というジャンルでも同じなのだが、マンガ『嫌韓流』からはそのような奥行きが全く感じられない。そこに描かれていることは、おそらく事実なのだろうが、『嫌韓流』が他民族をあからさまに批判する内容であるにも関わらず、なぜ日本に対する朝鮮民族の表現手段があのような形を取るのか等というような心理面での探求が、全くなされていない。著者の筆致、言葉の選び方からは、朝鮮民族に対する、表面的な嫌悪感しか伝わってこないのだ。『嫌韓流』が文章によって書かれたエッセイや記事であれば表現の自由の範囲であり、特に問題はないのだが、著者の手法が、自分の嫌悪感を、例えば全ての韓国人の顔が、狐目で顎のエラが張っていて、すぐ逆上するというスタイルだけで表現しようとしていることは、結果的に史実が、観念のみを媒介とした歪んだ形で伝わってしまうことになるのだ。つまり、漫画という固有の「形式」が、奥行きを表現するのではなく、表面のみを強調するものになってしまっており、結果的に質の悪いプロパガンダにしか成りえていないのだ。ハイカルチャーであれサブカルチャーであれ、事実が描かれてさえいれば、表現は問題ではないという考え方は非常に危険なことなのだ。