●;「わいがや;CCG」プログの始まり(4)

●;「わいがや;②」は‘コンテンツな’人々の集まりとした。「‘コンテンツな’人」とは、造語だが、敬意を込めて「コンテンツ(つまり情報内容)を大事にしている人々」という意味で使っている。ただ自分のことを「○○業界人」と言って憚らない人には「なーんでぇ」と思ってしまう。「その業界」がなにがしかの権威を持っているかのように聞こえるからだ。それに比べれば、帝大法科→農商務省貴族院書記官長→民俗学者らしい柳田国男の底意地悪い印象を世に与えてしまった岡茂雄の著書に『本屋風情』]]」という本があるが、「〜風情」と言った蔑称(でもないか)的な自負と自虐が入り交じった)「△△屋」という言い方を聴く時がある。メーカーの方で「機械屋」とか「○○屋」とか言い、国家のお墨付き職業の「人」で弁護士や会計士などの「士業」の人が自らを賤しめて「○○屋」と言うのを聴いたことがない。(短絡かもしれないが、官許の「士」は偉く「農工商」は身をやつして食べているという表現意識の流れか)。
●;ただ、これまでとは違うステージに立っていると認識した時には、「新しい装い」「ネーミング」が必要で、身の回りまで押し寄せる?技術革新によって「メディアという器」もどんどん進化していることの指摘は梅田望夫WEB進化論ちくま新書)に依っているが、コンテンツ業界もいち早く進化する戦場に馳せ参ずるところもあれば、旧来の戦場に留まってフゥフゥしている会社もある。‘コンテンツな’人々は、前者。ご自分のコンテンツを、「コンテンツの変換期」に遭遇している。日々の経済活動を繰り広げている「市場」も高度な「複雑系」であることは自明であって、複雑性-創発性-自己組織性と進化の性質を持つ「生きたシステム」(=市場)に新たな「商品性」(=命がけの飛躍)の投入を虎視眈々と狙っているのが、私(ら)なのだ。
●;「わいがや;②」は《コンテンツのさらなる変換》のための《場》である。ついつい、メディア業界での話題が取り出され(なんとかというベストセラーとかがテーブルに乗ることもある)が、そこから「時務情勢論」(床屋政談)に傾く時もないではない。こういう時はつまらない。《場の形成》に向かわないからだ。自説をまくし立てる人は良い気持ち?になるかもしれないが、要は、互いが経験的に持ってしまった通俗的な観念が参加者によって相対化される機会が《「わいがや;②》という《場》なのであって、その《場》が横に自己組織的に移動していくのがよいのだ。それが「②」の持ち味。そう、私らが持ってしまった<通念というシロモノ>が参加者の「思考の飛沫」を浴びて「新たなコンテンツ」として修正され膨らみ、あわよくば「商品化」の機会(=価値交換)を得られば、それはそれで「いい」。【T】