●;「わいがや;CCG」プログの始まり(2)

●;「わいがや」を始める前にわが団体メンバー数人で「プレ・わいがや」を試みた。どんな具合になるかのテストを行った。‘博識王’とか‘解釈王’とでもいうべき高橋航司と風巻融が喋り出すと止まらない。こういうのはダメだ。自分の持っている知識で他者を圧倒させようという対抗心がお互いに働いてしまっている。観客無視である。「他者の不在」である。中学や高校の教室で優等生同士が「俺はあんた(たち)より何点上だ」と鼻をうごめかしている様。
●;三年前になるかな。知り合い数人に声をかけて会議室に集まってもらった。300円の参加費は缶ビール一本と乾きものに消える。最初はどう進めようかと戸惑いがあったが、二度三度と続けると、あるスタイルが生まれてきた。集まった人々の自己紹介〜プレゼンの中から、その日の議論テーマを素材として選ぶ。だいたいのコード進行を決め、語りだしのキーの高さを決めれば(それは司会者の仕事)、(うまくいけば)後は主題が自動的に展開して行く。そういう「スタイルへの信仰」が揺らがなければ、その時間は幸福である。しかし、そこに動揺が生まれる時もある。議論の自動的展開に棹さすような自慢話(=自己体験の‘絶対化’)が入ってしまう時だ。ま、自慢をしたがるのも判らないではないが、コンパでもこういうヤツほど浮いているのに気が就かない人がいる。観客相手に大見得切っているつもりでも、胸に響くような話へ運ぶわけではない。「運ぶ」という意識がないから、観客は空しさに淀んだ気持ちを抱えてしまう。つのり、その場が止まってしまう。この停滞感こそ「わいがや的空間」の敵である。
●;「わいがや」は《話をしよう、聴こう》ではあるが、ディベートの場にはしたくなかった。話をしながら(聞きながら、受け止めながら)自分の頭脳に浴びせられる、浮かぶ「思考の飛沫」が獲得物である。幸いにして消滅を免れる飛沫もあれば、水溜まりに溶けてなんの痕跡を残さない飛沫もある。「思考の飛沫」を浴びてこそ想像力が膨らむ。見たことも聞いたこともない(その人)が語る「現実認識」をこっち側が思い描くことである。語る人の強いコトバにうなずき返すことではない。彼が強調したがっている「現実認識」の貧しさや限界(それを通俗的という時があるが)を超える新しいコトバが得られればよいのだ。(その場ではコトバが用意できなくとも)シーンを描ければいいのだし、思わぬ概念を掴まえたと思えば快楽なのだ。…そんな風に「わいがや;CCG」のティストは出来上がって行った。【T】