井上靖 『氷壁?』

ccg2008-09-02

 今年の夏休みは、念願の北アルプス登山と決めていたので、その前に、井上靖の 『氷壁』を読み直してみた。 登山ルートも、小説に登場する徳沢園経由、涸沢(家族連れなのでここまで) ということで、小説中ナイロンザイルが切れて小坂が滑落死したという前穂高岳東面の絶壁もよく見える。

 ところで、なぜ 『氷壁』 が名作と云われるのか? 今回読み直してみて驚いたのだが、昔読んだ時に記憶しているイメージとはぜんぜん違って、山岳のスリル、ナイロンザイル切断のミステリーといったような、ハードな面白さが、「あれ〜っ」というほどないのだ。 どうも自分でかってにそう思い込んでいただけのようで、この小説は完全に、終戦直後に描かれたトレンディードラマだった。 
 
 恋敵に対する殺人さえ疑われている「ナイロンザイル切断事件」の当事者である主人公の魚津がその嫌疑に悩む姿は全くないし、実際に社会からのパッシングを受けた様子もなく、ひたすら死んだ男の不倫相手だった、セレブな人妻との間の心理ばかりが語られる。 当の主人公も、山男のイメージではなく、今で言うところの、広告代理店のやり手クリエーターという小説中の本職のイメージの方が強い。 そしてまた、その主人公に恋する死んだ男の妹との関係も、打算に満ちたもので、くよくよ悩んでいるうちに結局、北アルプスの別の岩壁で、滑落ではなく、落石によって、失血死してしまうのだ。
 そして最大の謎は、この妹と主人公との心理的な描写がさっぱりされていなくて、完全に尻切れトンボ。なんのために、主人公まで殺してしまうのか、さっぱり判らないのだ。

 昭和20年代後半とは、そういうものに憧れる時代だったのだろうか。当時ベストセラーとなった『氷壁』は、題名からイメージされるような純文学ではなく、大衆向けの新聞小説だったのだが、しかし当時現実に起って社会問題となった、「ナイロンザイル切断事件」を題材としつつも、まったくそのこと自体を問題にするのではなく、トレンディーな恋愛物語へと横滑りできてしまうのだ。【M】

後ろの山が、前穂高岳。実際はもっと荒々しい山様で、『氷壁』 というタイトルだけのイメージとぴったりです。