自爆テロと特攻攻撃の「差」
特攻といえば航空機による自爆攻撃をイメージするが、日本軍は、人間魚雷「回天」 による特攻攻撃の他、挺進爆雷艇というベニヤ板で作ったモーターボートによる特攻攻撃も行っていた。 何かヤケクソな作戦のようにも感じられるが、靖国神社の資料によれば、このモーターボート特攻での戦死者は、1636名となっているので、そのような、なまはんかな作戦ではなかったことが覗える。
特攻攻撃はいずれも、絶対的国防圏といわれたマリアナ諸島の玉砕以降に考案されたものだが、よく解らないのは、敗色が極めて濃厚になった時点で、なぜ終戦へのソフトランディングを考えるのではなく、冷静に作戦として、自爆攻撃が立案できたのかということだ。
本当にお国のため、天皇陛下のため、というのならまだ話しは解る。 単純に、イスラム原理主義者の自爆テロをイメージすればいいからだ。 しかし、いろいろな資料を読むと、終戦直前の日本人の自爆攻撃は、どうも、本心から特攻に志願したわけではなさそうで、「しかたがないから」志願したというケースが多いようだ。
沖縄での自決の強要事件と同じで、「上官の命令は絶対だから従わざるを得なかった」 から、という論理はここでも成り立たない。 「死ね」 という命令と、「言うことを聞かないと殺すぞ」 、という脅しは完全に噛み合わないからだ。
そして、よく解らないことの核心はここにある。 なぜわれわれ日本人は、イスラム原理主義者のように何かを妄信するのでもなく、また拒否するのでもなく、─しかたなく「死」を選ぶ─ことができたのかということだ。
生か死か、という、[絶対的] な緊迫感はそこには全く感じられないではないか。 だとすれば、われわれ日本人にとっての「死」は、主体を賭けて抗うものではなく、運命に任せてしまえるような、[相対的] なものでしかないのだろうか。 しかし、いったいこの、─「命」の軽さ─はなんなのだろう。
おそらく、この性癖ともいえる、不思議な「死生観」は、解明することも変更することも難しいだろう。 したがって、できることは、われわれの精神の中には、そのような─欠陥─があることを、常に自覚しておくことだ。