■酒鬼薔薇聖斗と教育「環境」

ヨークマート看板問題に続いて。
 石原都知事が陣頭指揮を採る東京都教育委員会の言動を見ると解るように、教育環境を取り巻く状況には、 [理念]ばかりが渦巻いている。 要するに教育とは、「心」の問題だというのだ。 國を愛する「心」、友達を大切にする「心」。 では、その心を養うものは何なのか? 美しい國の伝統を学べば、美しい心が養われるとしたら、今、子供達が実感している、「國」の「伝統」は、どこにあるのか。 
 それは様々な所に観られるが、例えばそのひとつが、ヨークマートの風景だ。 合理性と、利潤を求めるコマーシャリズムを最優先させる感性は、紛れもなく、「日本の伝統」だ。 (しかし用心すべきは、 このようなことを言っても、近代とはそういうものだと反論されてしまうことなのだが、日本の近代化のスピードが他を圧倒していたことを考えると、日本の合理主義は、特殊だと言うべきだろう。)


 しかしそう考えると、逆に、何故日本の教育現場で、「心」 が強調されるのかが視えてくる。 簡単に言ってしまえば、決して、「美しい」とは言えない現実をカモフラージュするためであり、そしてそれは、「本当の価値は、物にではなく心に宿る」 という日本古来の価値観を、担保として都合良く利用することで、維持され、隠蔽されているのだ。
 格差を是とする近代社会にあっては、「本当の価値は、物にではなく心に宿る」 という価値観が、強者にとって、あらゆる面で都合がいいというのは、おそらく万国共通なのだろうが、問題なのは、日本ではそれが教育環境に如実に現れてしまっていることだ。 そこでは、1クラスの生徒の数、教師、教室の数、学校と、学校をとりまく環境、等のハード面は、「心」 が正しければ大した問題ではないというロジックが働いている。
 しかし、日本の伝統が作り上げた、美しくない風景の中で、「心」 の問題を強調することは、子供達にとっては、「ダブルバインド」 以外のなにものでもなく、つまり子供達にとっては、「自分の心は、ヨークマートの風景と同じぐらいの醜さ」 であって、しかし、その「心」 は本来美しいのだと言われているに等しいのだ。


 例えば、そのダブルバインドの犠牲者の最たる例が、酒鬼薔薇聖斗であると言えるのではないかと思っている。 彼は、「心」と「身」 の遊離に苦しんだ。 それは彼の書いた犯行声明を読めば、よくわかるはずだ。 詳しくは、去年の11月11日のブログに書いたが、(http://moritakuto.exblog.jp/4666724) 保護観察中、 彫刻の写真集を読みふけっていた彼は、必死になって、自らに物理的な─「身体」─を取り戻そうとしていたのだ。
  今、日本に不足しているのは、「心」(理念)ではなく、「身体」 (物)の方なのだ。 人間にとって、特に子供たちにとって、「景観」「環境」 の問題は、単に気分の問題ではない。 それは、個の形成、アイディンティティーに関わる重大な問題なのだ。【M】