東京都大規模小売店店舗立地審議会傍聴記

ccg2007-06-26

第三回東京都大規模小売店店舗立地審議会を傍聴してきました。長男と次男が通う小学校の校庭のすぐ真上に、でかでかと広告看板を付けたヨークマートに対して、看板の撤去を求めて都に審議を要請していたものです。
ざっと、どんな会議か説明すると、大規模小売店の建設に関わる苦情を、東京都に申し出て、それを受けた都が、法律家や、 建築家などの専門家の委員に意見を聞き、大規模小売店側にその意見を伝えて、改善を要請するというものです。


 で、結果はどうだったかというと、「期待は裏切られるもの」、というのは解っていたつもりなのですが、まさかここまで裏切られるとは思ってませんでした。 私は、町の景観や、教育問題など、倫理的観念から、広告看板の事のみを問題にして、意見書を書いたつもりだったのですが、蓋を開けてみると、事務局からの委員に対する主意説明は、駐輪場や荷さばき場のことや、児童の交通安全のことが主で、(そんなこと書いた覚えは無い!)最後に、「個人の方から、看板の撤去の要請がありました」 ということだけで、あげく、「都としての意見はありません」----、それだけです。
 議長が、 「では先生方、何か意見はございますか?」 の呼びかけには、四人の委員のうち一人だけが、全然関係のない建築図面の言葉の言い回しについて何か言っただけで、あとの三人は、みんな、「別にありません」で、終わってしまいました。
今回の審議会には、ほかに4件の議案があったのですが、いずれも、トラックの出入りの問題や、騒音問題等、解りやすいことばかりで、この審議会は、私が持ち込んだ個人の主観や、倫理観を問題にするような事柄を議論するような場ではもともと無かったということなのでしょうか。(看板が子供の頭に落ちてきたらどうする!、的な問題提起のしかたの方がよかったのかな?)


「生活環境問題」「教育環境問題」、などという言葉が、あちこちで聞かれるようになって久しいですが、おそらく日本では、解り易い、 表面的に見える問題にまでしか、言及できないのだと思います。 例えば、先日、この小学校の校庭で、他校とのサッカーの試合があったのですが、ひとりの父兄が、コジマ電気の看板を見て、「わー、すごい看板!」と言っていました。つまり、最初の衝動はあるのです。 「これはないだろう!」と感じる感性はあるのです。でも、すぐにそれはその人の内部で、「でも現実とはそういうものだ、資本主義とはそういうものだ」と、自分を納得させてしまうのです。 それは、慣習とか、形式という表面のレベルで、思考を停止してしまっているということで、本当の感情である、「えっ!」という最も重要な,「違和感」が、押さえ込まれてしまっているのです。 今回の問題に限ったことではないですが、法的問題を超えたところで、そのような、心理の根幹に触れる部分を露出させて議論できるようにしなければ、「生活環境問題」「教育環境問題」等が、本当の意味で解決されることはないと思います。【M】