ジェットコースター事故 「リスクとスケープゴード」

 ゴールデンウィーク真っ最中に起こった、背筋が凍りつくような、ジェットコースターの死亡事故、この責任は、いったい誰にあるのか? 心身両面で恐怖を体験させるジェットコースターが、全くリスクを排除した、安全な遊具であることは、可能なのだろうか?
 去年8月に投稿した、『リスクとスケープゴード』 を、再掲載します。



『10日ほど前になるだろうか、零細の建設会社が、千葉、東京にまたがる大停電を引き起こしてしまった。 クレーンを立てたままバージンを航行させて、高圧電線を傷つけてしまったことが原因らしい。電力会社はもちろん、被害を受けた無数の会社や個人から訴訟を起こされる可能性があり、この会社の存続は難しいと言われている。
 しかし、犯した行為と、起きてしまった被害は、明らかにアンバランスだろう。 ほんの僅かなミスが、甚大な被害をもたらしたとき、はたしてその責任を問うことは可能なのだろうか。 例えば、去年JR西日本が引き起こした列車事故も、原因は、たった一人の若い運転士の判断ミスだった。 しかし、数百人の命を、一人の人間が握っている場合、乗客は、その一人の人間の、思想信条、精神状態、健康状態が、万全ではないにしても、一応バランスは取れていると、思いこんで、あるいはそれを前提として利用しているわけだ。 しかし、この信用関係は、JRが、定期的に健康診断を行っているとか、危険回避のための訓練を日々行っているとかで担保されるようなことではなく、ほんとうは、運行する側も、利用する側も、お互い大きなリスクが伴うことを承認した上で、やむをえず関係を成り立たせていると考えるべきだろう。(例えば、急に運転士が脳梗塞で倒れないと、誰が言い切れる?)
 話を戻せば、電気というのは実はいつ止まるか判らない。 子供の頃は、停電は日常的にあったので、ごく自然にそんなものだと思っていたが、電気の管理が近代化してくると停電は異常事態となり、停電にならないことが前提となった社会構造ができあがってしまっている。 少し前であれば、クレーンを立てたままバージンを航行させて停電を起こしてしまっても、停電が日常化していた時代であれば、甚大な被害をもたらすことはなかったはずだ。 ある意味、リスクを予見した社会構造だったのだ。

 PL法でもそうだが、生活のなかで、リスクを背負う者と、背負わなくても済む者とのバランスが、大きく崩れている。 製造業、建設業といった、物を作る側の背負うリスクは大きくなり、サービス、販売業、情報産業といった、第三次産業以降の従事者のリスクはどんどん減っている。
 しかし、見落としてはいけないことは、リスクの少ない社会が近代国家の前提となっているために、リスクは、─隠蔽─されてしまっているということだ。 近年の様々な事故に対しては、「あってはならないこと」 で片づけられてしまうが、そのような社会では、事故を起こしてしまった者は、 スケープゴード とされ、本来、全員が認識しなければならないリスクと責任を、その者だけに押しつけるという構造になってしまっているのだ。』



即死してしまった女性は気の毒だが、この事故はある意味、しかたがない部分がある。 遊具の完璧な点検を義務付ければ、遊園地として商売が成り立たないだろうし、ジェットコースターという遊具そのものが、成立しない。 遊園地は安全だ、あるいは安全でなければならないと思うのはただの夢なのであって、飛行機や電車や車と同様に、いつも、「死」のリスクがあることを意識するのは当然として、現代社会では、リスクは常に─「隠蔽」─されていることにも、敏感であるべきだ。【M】