■リリー・フランキー『東京タワー』

この連休に、最近はやりの小説を一冊読もうと思って、ちょっと古いけどリリー・フランキー『東京タワー』 を買ってみた。 そこそこの長編で、『50万部突破!』 であれば、内容も期待できそうだ。 しかし、読み終わった感想としては「???」としか言いようがなかった。 この文章は、いったい「何?」なのか? 批評家の福田和也などは、「ナンシー関なき後の最強のコラムニスト」と帯に書いていたが、コラム、エッセイとしては長すぎるし、純文学でもないし、私小説的でもない。 しかも最近書店の平棚を賑わす若手小説家のライト級の中編小説でもなく、400ページを超える長編でありながら、50万部が売れてしまうのだ。 このカテゴライズの難しさはすでに、文学の質云々ではなく、社会現象として捉えるべきだろう。


 去年の12月29日のこのブログに、『パーフェクトマザー』 という文章を書いたが、主人公、雅也の母、栄子は、まさにこの 『パーフェクトマザー』 なのだ。これは朝日新聞少子化問題の記事を引用したものだが、そのとき書いたブログの一部から、

 ─「記事では、安倍ソーリの『美しい国へ』 の中の少子化問題に触れた部分を嘲笑し批判しているが、確かに─「わたしたちは若い人達に、家族のすばらしさを教えてゆく必要がある。 家族とはいいものだ、だから子供がほしい、と思わなければなかなかつくる気にはならないだろう」(あべ)─という半面だけの認識には、その「美しい家族」のためにつくさなければならない、母の「犠牲」性が、まったく考慮されていない。 そこでは、まさに聖母のように、自己を犠牲にして、家族の要求をすべて、ある時には暴力でさえも受け止めることが、当然のように強いられる。 もちろん、教師や政治家のように早々と聖職であることを放棄することは許されないのだ。」(ブログから)─

 ここで問題視したいのは、なぜ日本人は今、このような 「自己犠牲」性 に惹かれるのか、ということだ。『東京タワー』 現象は、母と子の愛とか、母性とかという言葉だけで片付けられる問題ではない。 ほとんど人間失格状態のオトンとボクへの、異常とも思える奉仕精神の中に、社会的な抑圧が無い訳がない。 自己犠牲とは 「抑圧」 の裏返しなのだ。「母」 を自己犠牲へと追い込む何かがこの国にはある。 冷たくなった母の遺体にだっこしながら朝まで眠ることができた雅也には、愛情というよりは、自分の母への抑圧に対して強烈なうしろめたさがあったのだ。
 
 ─「社会論では、社会が進化すればするほど、野蛮な状態を作り出してしまうという矛盾が語られるが、一見平和な社会に見えても、習慣的に、どこか一箇所に犠牲を集中させることを、悪意なく 「自然」 だと感じてしまう社会も、一種の 「野蛮」 性を秘めた社会だということを、われわれは認識したほうがいい。」(ブログから)─【M】