■「美しい国」の国民の─教育─

ccg2006-11-11

あまり知られていないと思うが、いまから9年前、神戸須磨児童連続殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇聖斗は、保護観察下、なぜか「彫刻全集」に読みふけっていた。正確には伝わってはこなかったが、本人は彫刻家になりたいという希望もあったらしい。
彼は、いくつかの印象的な犯行声明文を送っているが、そこからは、彼自身の存在感がいかに希薄なものであったかが伝わってくる。─「悲しいことにぼくには戸籍がない」、「これからも透明な存在でありつづけるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めていただきたいのである」、「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚されることには我慢ならないのである」─。
彼は、なぜ「彫刻」に関心を抱いたのか。おそらく、自我を修復してゆく過程では「言葉(理念)」は無力であり、それを可能にするのは、自らの身体と、外部との境界をなす、「皮膚」を丹念になぞって自分の在り処を確認することであり、そしてもういちど、浮遊する心に─「」─を取り戻してやる必要があったのではないか。つまり、境界が曖昧な絵画や言葉ではなく「身体」と世界との明確な境界によって成立する「彫刻」というメディアに、彼は、「救済」を視たのではないかと思うのだ。
考えてみれば、自分の存在の不明確さというのは、酒鬼薔薇聖斗のような極端な犯罪には及ばないにしても、頻発する少年犯罪の心理に共通している。 やはり、彼らにも─「身体」─が欠落しているしているのか。そしてその反動として、言葉や物語(バーチャル)が彼らの内部に渦巻いているのだろうか。
■今、「観念」「理念」「言葉」は、世界中に充満している。「民族(共同幻想)」を捏造するための国旗国歌の強制や、教育基本「法」、憲法改正は、さらに「理念」の肥大に拍車をかけるだろう。しかし勘違いしてはいけないことは、不足し傷ついているのは、─「心」─の側ではなく、それを受け入れる─「身体」─の側だということだ。【M】