郊外という「心象風景」

「郊外」という問題は、風景論、都市論、ライフスタイル論として取り上げることももちろん可能だが、三浦展のように、犯罪の温床としての「郊外問題」という捉え方も重要であると思う。前者はモダニズム(歴史的必然)の枠内で考えなければ議論が不可能な、グローバルな問題であるのに対し、後者は、その必然としての均質な風景の内側には、モダニズムとは相容れないプレモダンな問題があること、つまり、グローバリズムの枠組みでは見えてこない問題が、日本あるいは、その地域に固有の問題として存在することを示唆する。
 モダニズム(歴史的必然)として出現する「郊外」風景は、着実に歴史を刻んだ末にたどりついた、ある意味、歴史の終わりを感じさせる、静的な風景であり、そこに生活する人々にとっては、すでに「相対化」された、これ以上何処へも行きようのない場所である。しかし、日本で各所に観られる「郊外」は、本当にそのような場所だろうか。 【T】さんが、六本木ヒルズを観て「廃墟」を連想するのはなぜか? 郊外にこそ相応しい無機質な概観を曝け出したNTTドコモビルが、唐突に新宿に出現するのはなぜか? 都市、郊外、農村の境界が曖昧なのは何故か? 僕は、日本の「郊外」風景は、欧米のように「相対化」された風景ではなく、日本人にとってのそれは、モダニズムとは程遠い「心象風景」なのではないかと思っている。 つまりそれは、欧米のように歴史的必然から発生した現実風景ではなく、プレモダンな意味合いをその側に内側に多く含んだ、心的風景なのだ。
 したがって、三浦展が問題とするものは、郊外という「場所」に起因するのではない。それは、外面的にはモダニズムの必然によって偽装された「郊外」風景のなかに宿る、いまだに近代を、内面で相対化できない日本人の心理に起因する問題であって、場所を選ばず噴出する「郊外」は、もうすでに「廃墟」がイメージされているのではないかと思う。
 重要なことは、サディスティックに「スクラップアンドビルド」を繰り返す、また犯罪の温床でもある「郊外」は、日本の歪んだ近代化の問題が集中的に顕れる「特殊な場所」なのであって、グローバルにモダニズムという問題に宿命的に宿る普遍的な問題ではないと認識することだ。ー【M】

 
 (このような問題をブログという限られたスペースで書くことは難しい。数年前に同様の内容で書いた『ホンマタカシをめぐる試論ー擬似モダニズムの地平』という文章が、ギャラリーステーションという出版社の『美術評論2002』という美術評論集に掲載されていますのでよろしければ)