『裁判員制度』の実害─判決拒否の薦め

ccg2009-05-14

裁判員制度』の実害

裁判員制度がまもなく始まりますが、その法律の内容を、つまりどのようなシステムなのかをよく知らないで、司法への市民参加は必要だという理由から制度に賛成している人は多いと思います。法律の内容は酷いものなのですが、そのなかでも私がこの制度を批判している大きな理由の一つが、市民が死刑判決(多数決)に関らなければならなくなるということです。全員一致が原則の陪審員制度は存在しますが、これは世界にも例のないことです。 以下は、ネット上の議論で、「自分は納得が得られれば、死刑判決を下す」、というコメントへの返信です。


「公判前整理手続きによって精密な部分は削除されます。それは例えばドストエフスキーを読まずにそのストーリーだけを知らされて、「善」か「悪」かを選べと言われているようなものです。はたしてどこまで、「裁判員としての自分を納得させる理由を求める」ことができるでしょう?
 でもあなたは挙手を求められます。そして迷っているあなたに裁判官は解りやすい過去の判例を示し、それに倣うことが常識であるかのように、判例尊重を説いたりするかもしれません。
 私が質問しているのは、そのような時に、あなたが主体性を持って「死に値する」と思う、「値」の基準を、しっかりと持ち得るのかということです。つまりあなたは「死」に対する哲学を持っているのかということです。誤解しないでください、あなたを責めているのではなく、人間にはそのような哲学を持つことはできないということをいいたいのです。
 百歩譲って、「死刑制度」を認めるとしたら、職業裁判官が、自らの責任ではなく、国家の代理として「死刑」を宣告する場合のみです。現行の司法制度は、裁判官が個人として人を裁いているのではなく、国家からその資格を与えられた代理人としてです。
 裁判員制度の残酷なところは、「一人の【責任ある人間】として、他人の死の問題に立ち会うこと」を強要されることです。「死」に対してのしっかりした哲学を持ち得ないとき、神の代理でも、天皇の代理でもないあなた(われわれ)が、そのような責任を負う事は、絶対に止めた方がいいと思います。」


公判前整理手続きとは、裁判の迅速化のために膨大な証拠を裁判員のためにあらかじめ関係者が協議して整理しようという制度ですが、ここで言いたかったのは、自分の行動の責任転嫁が可能な、例えばテロリストのような宗教を持っているわけでもなく、権力の代理人でもなく、自らが関係者でもない一般市民が、自分の理性によって人の死に関らなければならないということは、精神的に、「危険」なことなのだということです。人によっては、一生重荷を背負うことになります。
 市民の義務であるとか、正義のためとかで、判決を言い渡してもかまわないのは、被告の人生を極端に大きく左右しない事件までだと思います。信仰や、資格を持たないわれわれが仮に裁判員になってしまって、死刑判決に立ち会わなくてはならなくなったとしても、自分のために、頑なに死刑を回避させるか、判決拒否をしてもだれからも非難されることはないし、そうするべきだと思います。悪いのは、そのような非常識な制度を押し付けようとする行政なのです。【M】